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no.109
老人ホームにて
 二月も終わる頃、おひな祭りの前にと思って、日永市を持参して母の入居している老人ホームを訪ねた。
 
ところが、その日は母の居室のある二階のフロアのワックスかけがあり、三時間近く居室に入る事が出来なかった。
 
その間入居者たちはリビングに集められ、二十人ほどが座っていた。母は入居して早、六年目、当時からの入居者たちも湊氏を重ねほとんどが車いすになっていた。私もスタッフが廊下に出してくれたソファに母と一緒に座っていた。そして見るとも無く入居者たちやスタッフの立ち働く様子を見ていた。
 
一時間ほどした頃、元気のよい五十代半ばと思われる女性が入ってきた。そしてリビングルームのテーブルの一角に座って、九十歳半ばと思われる車いすのお年寄りと会話を始めた。はじめは個人の見舞客かと思っていたが、その会話のなんと弁舌さわやかなこと。これはただの人ではないなと感じていた。
 
そしてその会話の一端が耳に入った。
 「王さん、お年は分かりますか?」彼女はお年寄りの耳元に頬を近づけて大きな声で聞いた。
 「分かりません」「王さんは百五歳ですよ」「王さん、貞治さんはいらっしゃいますか?」「いえ、来ませんね」そこでスタッフがこう言った。「いえ、年二回ほどいらしてますよ」
 
私はここで気がついた。えっ!王貞治さん?野球の監督の王さんかしら?十五分ほど続いた質疑応答らしき会話が終わったあと、私はいつもの好奇心が頭をもたげて質問していた女性のところに聞きに行った。
 
「王貞治さんのお母さんなのですか?百五歳なんてすごいですね。家の母は九十六歳だけどまだまだ上がいらしたんですね」
 「ところで貴方の職業の正式な名称はなんと言うのですか?あまりにさわやかな会話だったので思わず聞き入ってしまいました」などなど失礼をもかえり見ず、私は立て続けに質問してしまった。
 
女性はニコニコ笑いながら、そのお年寄りは王貞治監督のお母さんであること、自分の職業は「介護保険認定調査員」という名称であることなどを答えてくれた。私は、
 「ごめんなさい。私、気になると何でも確かめずにいられなくて」と恐縮してしまった。そんな私を見てスタッフもニコニコ笑っていた。そして、そのとき「ああ、良かった。これで又書けるわ」と思った。
 
 それにしても「介護保険認定調査員」なんて長い名称だなあ。さすが職業柄、お年寄りの耳元で、はっきりした大きな声で会話をするさわやかさ、とてもじゃないけど普通の人では周りに遠慮して、あそこまで話せないなあ、と思った。

 母を訪ねて、思いがけないこんな場面に出会うなんて思っても見なかった。

 そして帰宅したところ、なんと又嬉しいことに、「東郷」三月号が届いていたのだ。「ありがとう!神さま!」私は思わず手を合わせていた。


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