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no.84
感謝
 一月半ば、今年初めて老人ホームに母を訪ねた。入居して五年目になる九十五才の母は、その日も穏やかな笑顔で私を迎えてくれた。

 入居当時は、「どうして私がここに居なければならないの?」とかなり戸惑いを見せていたが、最近ではホームでの生活にすっかり馴染んだようで、いつもこういうのだ。

 「朝起きると毎日お日さまに感謝するのよ。大した病気もしないでここまで来られて本当にありがとうと言うの。と、手を合わせる仕草をした。

 確かに母の部屋は東向きで、家々の間からちょうどお日さまが顔を見せるのだ。そして母はこう続けた。

 「子供たちの名前を一人ひとり呼んで今日も幸せでありますようにとお願いするの」

 その日から私は何故か、「感謝」という言葉が頭から離れなくなった。「感謝」することが心の平安をもたらし、病気を遠ざけている事実を思った。

 ふだんの私は、日々の雑事に追い回され立ち止まって「感謝」する余裕などほとんど無い。たまに感謝することがあってもすぐ忘れてしまう。そして、いつもあれもこれもと欲張って満たされない思いを埋めようと必死になっている私。そろそろいい年なのだから「足る」を知らなくちゃと思う半面、焦りを感じてバタバタしている私。

 母と話しながら、そんな自分が情けなく、母の心境に達するのは並大抵ではないな、と実感した。

 母の部屋に居る間、時計のない平和で心穏やかな時間が流れていた。


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